生まれながらのハンディーキャップ

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生まれ変わっても脳性マヒという障害を持って生まれて来たいと思っています。


生まれながらのハンディーキャップ

1982年(0歳)の僕 本名:森裕生(もりゆうき)1982年生まれ、福岡市南区在住。の “Mr.Handy”のネーミングはマジシャンとしての芸名で脳性マヒのめ全身にハンディーキャップがあるのでそこの由来します。僕は、生時にへその緒が 首に巻き付き「脳性麻痺」になった。仮死状態で大学病院に移送され一命を取り留めたが、仮死状態にさらされた為に障害が残ってしまったのだ。肢体不自由 (両手足の不自由)で前までは、地面に張って移動した。言葉も明確にしゃべる事ができかった。

僕にとって生きること自体がリハビリ。

幼少期の僕の足リハビリは生後2か月から、間接に刺激を与えることから始まった。これがボイタ法※1と いうリハビリで言語訓練と一緒に始めた。このリハビリは簡単に言えば、身体を動かす訓練である。僕が今こうして手足が動くのはその頃のリハビリのおかげだ と思う。あれをやっていなければ、背骨も曲がっていただろうし、こんなに手足を動かす事も出来なかった。今の僕はなかったと思う。健常者は、何気なく手足 を動かしているけど、これは全て脳の機能なのです。その部分に障害を受けた僕の場合は、「生きること自体がリハビリ」のようなものなんです。

ここに注目
ボイタ法ってナニ?
ボイタ教授

ボイタ法はチェコスロヴァキア出身のボイタ教授によって発見された『反射性移動運動』を利用した運動機能障害に対する治療法です。ボイタ教授は、子どもに 特定の姿勢をとらせ、特定の場所(誘発帯)に適切な刺激を与えると、体幹と四肢に周期的な運動反応(筋収縮)が引き出されることを発見し『反射性移動運 動』と名づけました。教授はその反射性の運動が新生児でも大人でも脳性麻痺児でも引き出されることを確かめ、人類の脳に生まれつき備わっている運動パター ンであると考えました。その運動パターンは正常運動発達の過程では自然に現れて来ますが、脳性麻痺児では自然には出現することが出来ず、治療によって引き 出す必要があります。引き出された反応を自分のものにする可能性は、脳の可塑性から考えても脳損傷の時期に近いほど、月齢が小さいほど大きいはずです。し かし、軽い脳性麻痺では1歳半~2歳以上にならないと確定診断は困難です。そこで教授は独特の早期診断の方法を考案しました。先ず、仰向きやうつ伏せでの 赤ちゃんの姿勢の特徴を観察します。向き癖があると一方の手は舐めたり見たりできますが、反対側はできません。そんな赤ちゃんでは手と手を合わせて遊べな かったり、両手でオモチャを持つことが遅れたり、左右の母乳の飲み方が違っていたりします。それらができるように助けてあげただけでも、赤ちゃんは喜びま す。動ける赤ちゃんでは寝返り・這い這い・お座り・つかまり立ち・伝い歩きなどの運動パターンに左右差がないか、発達順序の逆転がないかなどを観察し、7 つの姿勢反応・原始反射・社会性の発達などを評価して診断します。ボイタ診断の大きな特徴は発達の遅れのみならず、不調和 (dysharmony) を観察することです。

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ボイタ教授 1917年7月12日、チェコ共和国のモロスキー/ボヘミアで生まれ

2000年9月12日、ミュンヘンで亡くなりました。彼は神経科医であり小児神経科医でもありましたが、肢体不自由児施設に勤めてた時に反射性移動運動を 発見しました。1968年プラハの春・チェコ事件に出会い、ドイツに亡命した後、ケルン大学整形外科とュンヘン小児センターで活躍し、1990年からは再 びプラハのカールス大学で教鞭をとりました。ボイタ教授は多数の科学分野におる表彰を受けておられますが、整形外科領域でもっとも卓越した人に与えられる ハイネ賞の受賞は特筆に値します。

健常者と社会で共に生きる事が両親の願い。

父と母の教育方針は、閉じこもらせない為に幼い頃から家の外に積極的に連れ出す事 だった。釣りや山の散策、地域のイベントなど外出したがる僕に、両親は「くたびれるくらい連れて行こう!」と答えてくれた。この頃両親に連れられてスナッ クで演歌を歌っていたことが笑い種になっている。また、普通学級で健常者と共に生きる事に対しても両親はこだわった。それは何よりも機能回復になるという 信念からだった。しかし、それは僕にとって平坦な道のりではなかった。両親が何度も教育委員会に足を運び説得してくれたおかげで僕は、普通学級の幼稚園、 小学校、中学校と進み、その後私立の高校を卒業した。教育委員会では「高校まで普通学級に通った前例がない」という理由から養護学校を強く勧められたが両 親は「より多くの人と付き合う中で社会性を身につけておく事が必要」と何度も話し合い普通学級への進学を認めさせた。

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