イジメが続き自殺も考えた日々

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生まれ変わっても脳性マヒという障害を持って生まれて来たいと思っています。


イジメという試練との戦い。

教室をハイハイする僕 学校では「地面ばかり見てた」それは肩を落とし、下を向いていたという意味ではな い。小学校3年生頃までいわゆる「ハイハイ」でしか移動ができず、いつも地面と顔の物理的な距離が近かったからだ。僕が歩行器につかまって歩き始めたの は、小4の頃。歩行器なしで歩く事が出来るようになったのは20歳を過ぎてからだった。
当時、教室内をハイハイで移動する事しかできない僕は、女子のスカートを覗き見しているような格好になる事からクラスメートに「あいつは変態だ」と言われ このころからイジメが始まった。中学校、高校でもイジメは続いた。その多くは「障害者」とか「養護学校に行け」などの言葉の暴力だった。特に障害児を短く して「ガイジ」と心ない言葉でからかわれた。こんなイジメにつらくて学校を休んだり、逃げ出したりしたこともあった。

イジメが続き自殺も考えた日々。

高校生の頃の僕それでも高校では、陸上で障害者の全国大会に出場し、練習の成果で今は両足で歩けるようになった。生徒会活動もしながら友人らの支えもありなんとか通い続けた。このように両親の教育方針で高校まで普通学級に通い続けたが、イジメが続き自殺も考えた頃でもあった...。


卒業しても就職先はないと思ってください。

念願のサラリーマン その後進んだ職業訓練学校に約1年通った。入校時に「合格させてすみません...卒 業しても就職先は無いと思って下さい」と言われた。卒業後、結局毎日ハローワークに自分で電話をかけ2週間に1社のペースで面接を受けながら職を探し、 やっとの思いで福岡市内の人材派遣会社に1年契約で入社した。同期では一番早い就職だった。念願のサラリーマンになって1年、突然首になった。不思議と悔 しくなかった。むしろ新しい何かに挑戦できる絶好のチャンスだと思えた。どんな苦境でも良い方へ解釈した。それが今まで学んできたことであった。「積極的 に社会に出ていかないと何も変わらない」。両親から何度も聞かされた言葉が自覚になった。健常者に囲まれて生きていく。そこにはイジメもあり、励ましもあ る。恋もすれば、失恋もした。それが僕の身体機能を向上させ、社会性を高めるのに役に立った。

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